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2010年8月25日

ノウイング

人間は一体どこに向かって
一体何をしようとしているのか?
今回のヌースDEシネマは
「ノウイング」を題材に
ヌーソロジーの
独自な視点で語っていただきます。

【作品紹介】 『アイ・ロボット』のアレックス・プロヤス監督が放つディザスター・ムービー超大作。消滅の危機にひんした地球を舞台に、ある重大な事実を知った大学教授とその幼い息子による愛と勇気のドラマが展開する。主人公の大学教授を演じるのは『ナショナル・トレジャー』シリーズのニコラス・ケイジ。『ハリー・ポッター』シリーズなどを手掛けたハリウッド最高峰のデジタル・スタジオ、アニマル・ロジックが担当する驚異のVFX映像に注目だ。
ストーリー●50年前の小学生たちが埋めたタイムカプセルから、数字が羅列されたメモを持ち帰った小学生ケイレブ(チャンドラー・カンタベリー)。彼の父親で宇宙物理学の大学教授ジョン(ニコラス・ケイジ)は、その数列を解析し、激しく動揺する。その数列は、実際に起きてきた過去の惨事と、これから先の未来に起こる災難を予知するものだった。
(シネマトゥデイより)

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藤本 みなさんのご要望にお応えして、久しぶりに「ヌースDEシネマ・特別編」をやります。半田さん宜しくお願いします。アメリカ映画って人類滅亡の映画が、ほんとに多いですよね。「ディープインパクト」「アルマゲドン」「地球が静止する日」「デイアフタートゥモロー」「アイアムレジェンド」......。挙げたらきりが無いほどありますね。最近では「2012」とこの「ノウイング」があります。今回は『ノウイング』を題材に、ヌーソロジーの観点から解説をお願いします。
半田 藤本さんが挙げたように終末ものっていろいろあるけどこの作品は結構楽しめた方かな。だいたいこの手の話ってのは、スーパーヒーローが現れて世界の滅亡をギリギリのところで阻止するってタイプの作品が多かったじゃない。この作品はまったく違ったよね。そこに新鮮さがあったな。
藤本 そうですね。最後は地球が消滅するショッキングな場面もありました。このような映画でよく出てくるのは『預言』ですよね。僕が高校生の時に流行した「ノストラダムスの大預言」にはじまって、数々の作品が生まれています。この映画にも、旧約聖書のエゼキエルの書が出てきます。「2012」にも、マヤ暦が預言的に使われています。半田さんが書いた「2013:人類が神を見る日」も、ある種の預言めいたことが書かれていますよね。
半田 ハリウッド映画の一連の人類滅亡ものは確かにユダヤ・キリスト教的な世界観の影響が強いだろうね。日本映画の場合、ほとんどないもんね。で、予言って何かってことなんだけど、まず、予言と預言を区別しないといけない。読みは同じだけど、預言には「神の言葉を預(あず)かる」という意味がある。一方、予言の方は単に人の未来を予(あらか)め言うという意味だよね。だから人類滅亡の予言と言った場合は、「預言」の方が正しいんだ。というのも、世界に終末が訪れるという話は世界各地に遺された古代宗教の預言者たちが口を揃えて言っていることだからね。僕が『人神』で書いた内容もある意味OCOTから預かった言葉だから「預言」だね。
藤本 古代宗教の預言者たちが語っている世界の終末に時期が、2012年ってこともあるのでしょうか?マヤ暦が2012年で終わっているってありますし、『人類が神を見る日』も2012年が終わりで、2013年から新たな始まりですよね。それと終末は、新たな始まりなんですか?宇宙の輪廻転生もしくは地球の輪廻転生なんですか?それともホントの終わりなのでしょうか?
半田 いゃ、別に古代の預言者たちが2012年終末説を唱えているわけじゃないよ。マヤ暦にしてもそう。マヤ暦をヒントに2012年を古い時代の終わりと考えたのはホゼ・アグエイアスというニューエイジの運動家だね。たまたまアグエイアスの見解と『人神』で紹介したOCOT情報が一致して、僕も驚いた経緯はあるけど。OCOTの預言内容はどちらかというと地球の輪廻転生だね。決して世界が物質的に滅びるわけじゃないと解釈してるけど。
藤本 この映画では、地球が物質的に滅びますよね。でも終わりではなく、選ばれた子どもたちが他の星へ旅立ち新たな始りが生まれる。その意味では転生が続くわけですけど、ヌーソロジーが描いている地球の転生って、どのようなものですか?
半田 ごめんなさい。地球の転生というのは正確じゃないな。人類全体の転生といった方がいいかもしれないね。現在の僕らってのは物質で世界が成り立っていると思っているでしょ。実際、この地球も物質の塊だと思っている。その塊の上で人間は生老病死を繰り返し、歴史や文明を作ってきたわけだよね。ヌーソロジーというかOCOTの言う人類の転生というのはそういう繰り返しが一度、消えてなくなることをいうんだ。つまり、物質世界という認識が意識から徐々に消え始め、世界自体が精神で作り出されていると感じ始める。そのときの精神というのは死んでも尚残り続ける永遠の魂のようなものと考えるといいよ。そして、それは現在の人間には素粒子や原子として見えていて、人間の意識は生きながらにしてその世界の中に入って行く。そして、その侵入がある程度まで達したときに、世界は新しく脱皮をはかり、次の世界に新しい人間と新しい物質世界を生み出すという感じかな。ものすごい話だけど(笑)。OCOTの預言はそういう話だったね。
藤本 世界が新しく脱皮をはかり、新しい物質世界を生み出し始めるのが2013年だと解釈していいのですか?そしてそれは永遠に繰り返される。この映画の主人公である、宇宙物理学者のジョンが大学の講義の中で話していましたけど、それは決まっていること「決定論」か偶然が重なって起こっている「ランダム論」というのがありました。半田さんがおっしゃっている人類全体の転生は「決定論=始めから決まっていること」ですよね。物質世界の認識が精神意識へと移行されて行くことも、決まっていたということですよね。
半田 ランダム論か決定論かというのはよく話題に昇るテーマだけど、僕は宇宙はどちらも含んでいると思うんだよね。全体から俯瞰したときは決定論的で、個別に見たときはランダム論的という感じかな。その意味で言えば、人類全体がどこから来てどこに行くのかという問題は全体性の問題だから決定論だね。始めから決まってる。だから預言が成り立つってことなんだろうと思うな。
藤本 この映画の人類の終末には、太陽のスーパーフレア(恒星の表面で起こるエネルギーの大爆発、宇宙空間に高エネルギー粒子やイオン化ガス、放射線を放出する)が引き金となりますが、ヌーソロジーは、太陽をどのように解釈をしていますか?また太陽のスーパーフレアってあるのでしょうか?
半田 太陽かい?いつも言ってることだけど人間の自我の本質力だと考えてるよ(笑)。天体物理学的な視点から言うと、まず起こり得ないと言っていいと思う。もともとスーパーフレアは他の恒星系で発見されたもので僕らの太陽では少なくとも一度も起きていないと考えられている。というのは、スーパーフレアの原因が周囲の惑星との間にできる磁場のねじれによって起こると考えられているからなんだ。輪ゴムをくるくる巻き付けるとある一定のところで反発して弾けるでしょ。あれと同じ。恒星の周囲を回っている惑星の磁場が度重なる公転運動によってその恒星の磁場との関係で捩じれを作っていって、それが弾けるときに恒星がスーパーフレアを起こすというわけ。でも、これって惑星がそこそこ巨大で近くないと起こらないとされている。まぁ、太陽系だったら水星軌道当たりに木星ぐらいの惑星がないとダメだね。
藤本 太陽のスーパーフレアは物質的には起こらないけど、精神的(内面的)に起こるのでしょうか?だって2013年に新しい世界・人類が再生されるってことは、人間の自我の本質力が爆発を起こし、変革するってことですよね。そんなことが起こらない限り、人間が変革し新しい世界観を持つイメージが湧かないなあ。
半田 2013年については僕もいろいろ言ってるけど、2013年に突然、人間や世の中が変わるってことはあり得ないと思うよ(笑)。文明の峠のような場所だということじゃないのかな。今まで物質的価値に傾いていた人間の価値観が明確に精神的に価値を持ち出すといったような。そういう意味でのエポックメーキング的な出来事は起こるかもしれないけど、一部のスピリチュアル世界で言われているような壊滅的なカタストロフィーなんてものはないと思うな。
藤本 2013年が物質的価値が、精神的価値に移行して行く起点になるということですね。人間も物質(肉体)だけで生きていないってことが明確になるんでしょうか?どうしても「死のイメージ」が肉体死から抜け出せない。映画の最後のシーンですが、息子のケイレブが宇宙船に乗り込む時に、父親のジョンと最後の別れをしますよね。お互いに手話で「僕たちは、永遠に一緒だよ!」って。僕もケイレブと同じくらいの息子がいます。「永遠に一緒」っていうイメージがリアルに感じないんです。逆に「後何年一緒に生きていられるんだろう」って思ってしまうんですよね。いつまでもいつまでも、愛する人と永遠に一緒にいたいのは、人間の希望だと思うのですが。
半田 はは(笑)。物質や肉体レベルで生や死を考えるだけではどうしても藤本さんの言うようになってしまうよね。ここで2013年に起こる精神的価値への移行と言っているのは、単にモノからココロへといったレベルの話ではなくて、物質世界の大本は実は僕らの精神で成立していると考えるくらいの大転換のことなんだよね。この世界観の中では人類のあの究極の問い「われわれはどこから来て、どこへ行くのか」に答えが出てくるんじゃないかと思ってるんだ。そして、その答えの中には、今、藤本さんが言った「永遠に一緒」というイメージの意味もはっきりしてくる。つまり、人間の死の意味が分かるってことだ。死の意味が見えてくれば、それはもう死じゃないとも言えるよね。この映画のラストで、地球を脱出した男の子と女の子が新しい世界に降り立つよね。そこには一本の巨大な樹が生えていて、そこに向かって二人が走っていくところでこの映画は終わるんだけど、この樹は単なる植物ではなく「生命の樹」を喩えたものなんだよね。つまり、宇宙のすべての生命の力をコントロールしている源泉力の象徴のようなもの。だから、僕なんかは駆け寄って行く少年と少女も、人類全体の男性性と女性性の力の象徴として描かれているんじゃないかって解釈したのね。地球は確かにスーパーフレアで焼かれちゃったけど、でもそれは滅亡なんかじゃなくって実は人類の新しい始まりなんだって。だからケイレブの中にジョンも一緒に生きてるんだよ。

投稿者 fujimoto : 11:57 | コメント (0) | トラックバック