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2009年3月 2日
「おくりびと」
「人間は一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」
今回のヌースDEシネマは「おくりびと」を題材に
ヌーソロジーの独自な視点で語っていただきます。
【作品紹介】 所属する東京のオーケストラが解散し職を失ったチェロ奏者の大悟は演奏家を続けることを諦め、妻の美香を連れて故郷の山形に戻ってくる。早速、求人広告で見つけたNKエージェントに面接に出かけ、その場で採用になるが、それは遺体を棺に納める納棺師という仕事だった。戸惑いながらも社長の佐々木に指導を受け、新人納棺師として働き始める大悟だったが、美香には冠婚葬祭関係の仕事に就いたとしか告げられずにいた。 納棺師とはなんと素敵な仕事だろう。主演の本木雅弘と山崎努のスムーズな手の動きに思わず見とれてしまう。それは美しく厳かな旅立ちの儀式にふさわしい所作なのだ。かつて旅先で遭遇した納棺の儀式に感銘を受けた本木の発案だというユニークな題材を持つ本作。『病院へ行こう』『バッテリー』などユーモアを交えつつ感動を生む人間ドラマが得意な滝田洋二郎監督がメガホンをとり、放送作家・小山薫堂が初めての映画脚本を手がけている。誰もがいつかは迎える死と、その日が来るまで笑って泣いて生きる人々の姿を、夢や仕事への誇り、あるいは親子、夫婦の絆を浮かび上がらせて描いた本作は誰の心にも深く残るに違いない。 (goo映画情報より) |
藤本 今回の映画「おくりびと」を見て、よくこんなテーマで映画を制作したもんだなと感心しました。『納棺師』という仕事をはじめて知りました。そう言えば、この映画を企画立案したのは、主人公の本木雅弘さんだそうですね。モントリオール世界映画祭でグランプリを獲得したり米アカデミー賞外国語映画部門にもノミネートされて海外での評判も高いですね。
半田 僕は邦画はあまり見ないタイプなんだけど、この映画は素晴らしかったよね。たまたま僕の母が去年亡くなって、その後すぐに観たものだから、もう涙がとまらなくて。ずっと泣いてたね〈笑〉。でも、そうした私情抜きでも、この映画のテーマは深く心に響くものがありました。製作者ならびに出演者の皆様に感謝です。
藤本 この映画を半田さんと一緒に観たのが、お母様が亡くなられてすぐでしたね。人間として生まれて、誰も避けて通れないのが死ぬことです。自分だっていつか必ず死ぬんですよね。死のイメージはいろいろ語られているけど、まず恐怖があると思います。死を忌み嫌うのが人間の性なのでしょうか?今回は死というものを、ヌース理論で解説していただきたいと思います。
半田 あっ、その前にちょっと断っておかなくちゃいけない。「ヌース理論」という呼称を最近、ヌーソロジーに変更したんだよね。ヌーソロジーというのはヌース学という意味なんだけど、理論というと何か堅苦しいでしょ。それに、ヌース理論=半田理論みたいになっちゃって、人間や世界に対する新しい考え方を、多くの人と共に作っていくっていう感じがなくなっちゃう。だから、今後はヌーソロジーってことでいきます。で、伝統的な宗教ではほとんどが死後の世界があると考えるよね。ヌーソロジーでも全く一緒で人間は死んでもその意識の本質の部分は残ると考えるんだ。
藤本 わかりました。ヌーソロジーでいきます。伝統的な宗教での死後の世界ってどんなものでしょうか?この映画でも納棺師の仕事は、死後の世界に旅立つための「旅立ちのお手伝い」と言っていましたね。日本では黄泉の世界とか涅槃の世界が死後の世界にあたりますかね。天国とか地獄とか・・・。
半田 仏教では生前の魂のあり方によって、死後の魂は二つに分かれると考えるんだよね。よく聞くでしょ。煩悩と欲望を持ったまま死んだ魂はサンサーラという輪廻の回路に入り、再び人間として生まれてくる宿命を持つ。いや、そのときの境涯によっては動物に生まれ変わってくることだってある。一方、悟りを開いた者はサンサーラを超越し、ニルヴァーナへと入る。これが涅槃だね。ヌーソロジーでは魂の輪廻転生というのは仏教が考えるものと少し違うけど、死後、魂がそのあり方によって二つの道に分かれるというのはとてもよく似ている。
藤本 西洋でも大体同じような考え方ですか?アフリカ大陸や南米やオセアニアなども同じ?人類共通ですかね?
半田 キリスト教やユダヤ教などは違うけど、古代エジプトや古代ペルシアなどにも輪廻思想はあったんだよね。古代マヤ人たちやインカもそうだね。その意味ではほぼ全世界に共通の思想と見ていいんじゃないかな。
藤本 全世界に一番布教されているキリスト教には、輪廻思想は無いのですか?死後の世界観はどのようなものですか?
半田 基本的には「ない」と言っていいと思うよ。西暦2~3世紀頃までのキリスト教、いわゆる原始キリスト教の時代はまだグノーシス的色彩が強くて、それ以前のミトラ教などの古代宗教に影響を受けていて、輪廻思想が盛り込まれていたんだけど、その後、教義を統一する際に輪廻は否定されたみたいだね。キリスト教の死後の世界観はおおむね、死んだら人間は肉体も精神も停止するって感じかな。ただ、イエスの教えを信じた者だけが、イエスの再臨の日にイエスと共に復活し、神の国に入る、そういう考え方だね。
藤本 そうですか。ではあらゆる宗教は、死後の世界があると考えているんですね。「死んだらお終いで、死後の世界が無い。」と思っている人も多いと思います。僕としては、良く解らないけど、死後の世界があって欲しいな。輪廻思想とヌーソロジーの死後の世界観について、もう少し詳しくお聞かせください。
半田 ヌーソロジーの死後の世界の考え方はどちらかというと正統的な仏教の考え方に近いかな。元来、仏教の輪廻思想というのも、個体の魂が輪廻するという考え方ではなかったんだよね。つまり、主体的な働きは死によって一回解体されて、全体に戻るというのが正当な仏教の考え方なんだよね。雨粒を個体の魂と考えるならば、雲から雨粒となって地上に落ちてくるまでは粒として個体化してるけど、それが地上に落ちたら、川に流れ込み、いずれは海の中で一体になるでしょ。そして、海から蒸発してまた雲になって、雨粒として落ちてくるけど、そのときには、もう元の雨粒なんてものはどこにも存在してないよね。ヌーソロジーの考え方もそれと同じで、確かに輪廻はあるけれど、それは個体→全体、全体→個体、という繰り返しの輪廻であって、個体→個体→個体というようにずっと一つの同じ魂が輪廻していくわけじゃない。それと、もう一回り巨大な輪廻というのがあって、これは宇宙全体が行なう輪廻のようなものなんだ。
藤本 古来の輪廻思想は、「固体→全体、全体→固体」としてヌーソロジーと同じような考え方なのですね。では、「固体→固体→固体」という輪廻思想は、いつごろから考えられたのですか?最近「あなたの前世は、18世紀のヨーロッパの王様ですよ。」なんていうのもありますが・・・?
半田 うーん、どうだろうか。これに関しては何とも言えないね。宗派によっては個体の輪廻があったとするものもあるし、一概にいつから個体の輪廻思想が唱えられるようになったっていうものじゃないんだよね。ただ、傾向としては中世以後、というのが考えられるんじゃないかな。つまり、人間に個体という概念ができてきてから。古代の人たちは王族は別として、あまり個という意識は強くなかったと言われている。たとえば、日本の場合、平安時代とかは姓名がない人も多かった。なんとかの翁とか言うように、住んでいる場所でその人を表したりね。そういう環境では個の意識も薄弱だよね、きっと。その意味で、時代とともに自我意識が強くなってきて、個体の輪廻という思想も確立してきたんじゃないかな。
藤本 『死生観』によって人間の生き方が変わってくると思いますね。今、現代日本に住む我々(自分も含めですが)は、確固たる『死生観』を持っている人はあまりいないのではないでしょうか。だから、生き方が中途半端になっているような気がするのですけど。
半田 まさにそうだね。死を意識できなければ生も意識できない。僕らはある意味、生きているのか死んでいるのかどっちつかずの朦朧とした意識を生きていると言えるかもしれない。今の社会は死を嫌いすぎてるよね。傷、病、老い、死、こうしたものをあたかも醜悪なものとして考えてるでしょ。だから、一方で、健康なことが一番のような価値観が出てくる。健康というのは魂の健康を伴ってこそ初めて意味があると思うんだ。死を忌み嫌う魂の在り方というのは決して健康ではないよね。TVのニュースで屍体を見せないし、事故の現場でも屍体はビニールシートで覆い隠されてしまう。死は隠されれば隠されるほど恐怖や不安の対象となるだけで、死のリアリティーは歪められ、死の尊厳というものも忘れ去られてしまう。そして、当然、死後は無の世界とされ、生だけが価値あるものとされるわけだね。
藤本 老いることや死の尊厳を持って生きることができるのでしょうか?自分も老いたくないし死にたくないです。でも、確実なのは自分も老いるし死が訪れることです。この映画のポスターにも『いつか あなたも おくりびと おくられびと』とありましたよね。自分でもしっかり『死生観』が持てるようになりたいと思っているのですが・・・。
半田 死が怖いというのは僕も同じだけど、死にたくないということと死を常に意識しておくこととは何の矛盾もしないよね。たとえば、死に目にあって、それから大きく人生観が変わるってことをよく聞くじゃない。自分がこの地上からいずれいなくなるということがはっきり意識できると、生きている時間というものが非常に貴重に思えてくる。貴重に思えればおのずと日々の行ないも変わってくるし、まず、人に優しくなれるよね。自分の死は裏を返せば、自分以外の人すべての死でもあるわけで、出会う人すべてが死によってみんないなくなっちゃう。それなら、今、このときだけでも、精一杯この人と接しようという気分にはなる。それだけでも人生は大きく変わるよね。
藤本 そうですよね。僕には二人子供がいるんだけど、子供が生まれてからはいつも『僕はこの子達といつまで一緒にこの世にいられるんだろうか?』と考えるようになりました。『いつまでもいつまでも、こうして一緒に暮らしていたい。だから死にたくない。死なせたくない。』とそう思うと同時に、『自分も一生懸命生きたい。子供たちにもそう生きていって欲しい。』と思います。死後の世界があるならば、また永遠に一緒に暮らしたいと思います。僕が死んだら、子供たちがこの世の生を全うした後、また逢いたいです。
半田 僕が思うに死後の自分というのは、今の自分に重なって同時に存在しているものだと思うんだよね。死を意識するとはそうした今の自分に重なった死後の自分というものを想像して生きるということと同じだと思うんだ。仏教でいう生死即だ。これは「今」に生きるということの意味だと言っていいと思うよ。今というのは瞬間という意味じゃないよ。過去を思うにせよ,未来を思うにせよ、つねに「今」だということ。その意味でこの「今」には時間が存在していない。別の言葉で言えば、それは永遠ってことでもあるよね。こういう永遠の状態のみの世界に入ることが「死」なのではないかと思うんだ。時間に縛られた肉体は滅んでも、この永遠の今を感じ取っている意識は残る。だから、生というのは死と重なり合っているんだと思う。この永遠の方につねに価値を持って生きれれば、僕らはもっと優しくなれんじゃないかな。
投稿者 right : 2009年3月 2日 15:56
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