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2007年9月 1日
硫黄島からの手紙・父親たちの星条旗
私たちは
「一体どこに向かって、一体何をしようとしているのか?」
『ヌースDEシネマ』は話題の映画をヌース理論の提唱者 半田広宣氏に独自の視点で解説していただきます。
第四回目の作品はクリント・イーストウッド監督『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』です。
【作品紹介】
第2次世界大戦時の最も悲劇的な戦いと言われる"硫黄島の戦い"を、アメリカ側の視点から描いた作品が『父親たちの星条旗』で、日本側からの視点で描いたのが『硫黄島からの手紙』です。監督は『ミリオンダラー・ベイビー』のクリント・イーストウッド。【父親たちの星条旗】
有名な"摺鉢山に星条旗を掲げる米軍兵士たちの写真"の逸話をもとに、激闘に身を置いた兵士たちの心情がつづられる。第2次世界大戦の知られざる一面が垣間見られる。第2次世界大戦の重大な転機となった硫黄島の戦いで、米軍兵士たちはその勝利のシンボルとして摺鉢山に星条旗を掲げる。
しかし、この光景は長引く戦争に疲れたアメリカ国民の士気を高めるために利用され、旗を掲げる6人の兵士、ジョン・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)らはたちまち英雄に祭り上げられる。【硫黄島からの手紙】
戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、アメリカ留学の経験を持ち、西洋の軍事力も知り尽くしている陸軍中将の栗林忠道(渡辺謙)が、本土防衛の最後の砦ともいうべき硫黄島へ。指揮官に着任した彼は、長年の場当たり的な作戦を変更し、西郷(二宮和也)ら部下に対する理不尽な体罰も戒めるなど、作戦の近代化に着手する。
(シネマトゥデイ)より
藤本
この2作品は、『硫黄島の戦い』を、アメリカ側と日本側からの視点で同じ監督が制作しています。しかも、その視点の中心は、実際に最前線で生死をかけて戦っている兵士たちです。悲惨な戦闘場面の多い映画ですが、その中で死んでいくのは、ごく普通の青年たちです。つい最近でも、日本の防衛大臣が、日本への原爆投下は「しょうがない」って発言もありました。こういう無自覚な発言を聞くたびに、人間は、歴史で何を学んできたのだろうかと、つくづく思ってしまうのですが、人間は、なぜこうも懲りずに戦争をするのでしょうかね?
半田
こういうこと言うと、顰蹙をかっちゃうかもしれないけど、別に人間が戦争をしているわけじゃなくて、戦争が人間を作って来たという部分があると思うんだよね。つまり、戦争という行為の主体は実は人間じゃなくて、戦争そのものだということなんだけど。
藤本
どういうことですか?
半田
人間より以前に戦争が先にあったということだよ。よく言われていることだけど、近代以前の世界では、「人間」や「人類」といった概念はなかった。元々、人間という概念はヨーロッパの白人男性を指す言葉であって、人種差別なんかも人間の種族間の差別というよりも、人間とは違う別の生き物、という感覚から生まれていたと思うんだ。女性だってサル同然に見られていた時代もあったしね。
藤本
ヨーロッパの白人男性の立場から言えば、女性を含めその他の民族や人間は、人間以下と言うことでしょうか?鎖国していた日本人やその他の黒人やインデアンとかは、どうだったのでしょうか?
半田
日本人だって多かれ少なかれ同じだよね。例えば古代日本では蝦夷(東北)の住人たちは人を食う鬼の類と見なされていたでしょ。決して「人間」という同類項では括っていなかった。当然、そういった人間観を持った社会では、異民族との戦争は人間という生き物が成長していくには、当然の手段であって、戦争がそのまま「悪」だという観念なんてどこにも存在しない。「蝦夷征伐」や「蝦夷討伐」という言葉が示すようにそれはハンティング感覚だったんだと思うよ。それに前近代という時代では、君主のために臣民が戦うというのは、当たり前の話で、それは悪というより、むしろ一種の欲望のようなものとして動いていたと思うんだ。日本なんかはつい60年前までそうだったわけでしょ。この「硫黄島からの手紙」だって、現代日本人(米国人?)を通して見た太平洋戦争であって、決して当時の日本人のそれじゃないよね。一般的に戦争が悲惨なことである、という認識が常識化してきたのは、大量殺戮が可能になった20世紀に入ってきてからだよね。
藤本
そう言われてみれば、映画の描き方も第二次世界大戦以降変わってきたように思えますね。ハリウッド映画では、ベトナム戦争の描き方が、それを顕著に表わしていますよね。
半田
大きな戦争が二度繰り返されたことによって、欧米の西洋中心主義がやっと反省心をちょっぴり持ってきたってことだろうね。
藤本
日本においては、第二次世界大戦以降、戦争を体験していないので「戦争」と言う概念が変化している中で、相変わらずその時代性を引きずっている映画作品が多いように思います。
半田
うん。戦争に向かう男たちの精神を賛美するような作品も多いね。「男たちの大和」なんてタイトルからして最低。
藤本
「男たちの大和」は結構、評判がよかったみたいですが、半田さんの「最低」の意味をもう少しフォローしていただけませんか。
半田
あの映画は「命をかけて国を守る」若者たちの生き様を描いたものだったけど、実際には国を守るためには人を殺さなくてはいけない。まずは国家があって、その恩恵で人がいる--僕は、そういう考え方から脱却していくことがこれからの人間の意識の進化の方向だと思うんだよね。つまり、国家よりも個が優先されるべきだと考えているんだ。その点では、あの映画の制作意図は全く逆行している。あの時代は人間の精神は国家をベースとして個への分離が不十分だった。しかし、今は違う。近代以前に「人間」という概念が存在しなかったように、人の精神の在り方は時代と共に変わって行く。確かに寄るべき価値観が消失した時代に皆が共有できる価値を再構築しなければならないというのは分かるけど、それは断じて国家などではないよ。
藤本
『皆が共有できる価値を再構築』する為には、国家よりも先に、個をいかに捉えるかが重要だと言うことですね?それをしないと戦争は永遠に続くんでしょうね。世界の色々なところで、いまだに戦争をしていますし・・・。
半田
現代の戦争は民族紛争がほとんどだよね。イスラエル、ユーゴスラビア。あとは少数民族が政治的な独立を求める東ティモールや、ロシアからの独立をしようとするチェチェンなんかでしょ。厄介なのはこうした紛争に大国が介入し、武器供与なんかを行なうから戦争被害がよけい拡大する。みんな大国のエゴの犠牲者だよ。
藤本
そうですよね。現代は、良い意味でも悪い意味でもワールドワイドになっています。だから当事者同士の問題が、関わりのある国々がどんどん介入していき、収集が着かないで絶え間なく続いているように思います。その根底には、半田さんの言う通り大国のエゴがあると思います。『父親たちの星条旗』の中で、占拠した摺鉢山に星条旗を掲げる兵士の写真を撮り、それを広告として使い兵士を時のヒーローに仕立て、民衆の士気を上げ、国債を買わせてお金を集める。兵士達の意思は無視されています。つまり民主主義や資本主義のエゴだと思います。国家エゴが個の確立を許さない図式が良く描かれているんじゃないでしょうか?
半田
国家が存在しなければ大規模な戦争は起こらないわけだから、戦争を世界から追放するためには早い話、国家を解体すればいいわけだよね。こういう考え方が無政府主義というやつだね。でも、僕らは国家がなければ社会秩序がバラバラになって、犯罪なんかが至る所で起こっちゃうと考え、ついつい国家無しの共同体に不安や恐怖をつのらせてしまう。結果、無政府主義なんてものは現実を知らない理想論で片付けられてしまう。もちろん社会に共通の価値観がなければ秩序は保てないけど、その価値を国家に集約させるのはやはり間違っていると思うんだ。
藤本
うーん。難しい問題ですね。今までは、個が国家に頼ってきたと思うんですよ。治安や今問題になっている年金問題なんかもそうですし、エネルギー・環境・教育・医療・福祉などなど国家にかかわる全ての問題に関して頼り切っていたと思います。半ば強制されシステム化され、それを頼りにしていたら、知らないうちにそのシステムの根本が崩壊して行っている現状を突きつけられている。国家の解体作業は、人間=個の価値観を再構築することだと思いますが、共通認識の持てる価値観の創造ができるのでしょうか?
半田
そこが最も重要な問題だよね。こんなに価値観がバラバラな時代では、せいぜい国家ぐらいしか価値中心になれないよね。でも、こと日本の場合は、その国家価値さえもボロボロになっている。だから一部の人々は公の復権を国家に託そうとする。でも、経済、政治、文化、あらゆる要素がワンワールド化しようとしているこの時代に、いかに憂国を声高に叫んでもあまり意味がないと思うんだ。むしろ、そういう日本だからこそ、国家に変わる新しい価値中心を生み出す可能性があると考えた方がいいよね。地球環境の問題なんかを考えてもそれが21世紀世界の人間のテーマだし、それが生まれれば人間は別の生き物に変容することができると思うんだ。
藤本
『国家に変わる新しい価値中心』ですか?その可能性をどう追求していくのですか?国家と個をどの様に考え、そして共通認識にして行くのかがテーマになっていくと思うのですが?
半田
最初のところで話したよね。人間が戦争を発明したんじゃなくて、むしろ戦争が人間を作ってきたって。国家も同じで、人間が国家を作ったんじゃなくて、国家が人間を作ってきたと思うんだ。国家というのはある意味、人間にとっては父性の役割を果たしていた。その意味で言えば母性は自然そのものかな。人は人間になる過程で、母性的世界、次に父性的世界を辿り、そして、思春期を過ごして来た。つまり、アニミスム信仰を持ったような原始部族において人はまだ母性的世界にいて多神教だったわけだよね。、その後、古代国家が現れ、人間は一神教的な父性的社会に投げ込まれる。そして、近代国家に至って、人間という概念が現れ、人は母=自然からも父=宗教からも離れようとする。つまり、思春期に入ったわけだよ。これが「個」への意思の発現だと思うんだ。人の思春期には人間同様、強烈なエロスが働くことになる。ちょうど、僕らが異性に恋い焦がれるようにね。このとき生まれてきたのが、資本主義なんだ。資本主義には確実に宇宙的な性愛の力が流れ込んでいる。それは欲望を現実化しようとする力として現れていると思う。欲望は見えない。だけど欲望は見えるものに姿を変えたがる。見えないものを見えるものに変えていくこと。一言で言えば、この行為のエネルギー源が資本主義に潜むエロスの働きだ。このエロス領域を通過することによって人は成長し、やがて成人になっていく。そりゃあ、蒼い恋愛は苦い思いも辛い思いもするさ。でも、そこに魂の成長の糧があるわけだよね。そして、どうにかこうにか成人にまでたどり着く。この「人においての成人」というのが、人間における個の確立というものじゃないかな。国家と個というのはオヤジと息子みたいなものだと思うよ。息子はいずれオヤジから独立する。
藤本
国家(父)を持つ個は、やがて成長していき、国家(父)を超え成人(個の確立)して行く。それが父と母と子の宇宙的物語(歴史)ということですよね?資本主義が終焉をむかえ、未だかつて無い新たな世界観が発芽して行くのですね!?。
半田
何を持って個の確立とするのかは諸説あると思うけど、僕はそれはグローバリズムの完成と共にやってくるものだという考え方をしてるんだ。世界がすべてネットワーク化され、そのネットワークを誰もが共有できるようなったときの意識とでもいうのかな。球面上の一点から円に広がりを持ち、その円がどんどん膨張していって、最終的に元のスタート地点へ戻ってくるというイメージ。このとき、一点である個は球面全部を意識の領野に取り込むことになるよね。ここから何が始まるかというと、そうした点が無数に結合して、今度はその点の集まりでもって球面を埋め尽くすって感じかな。つまり、個=全体という概念がしっかりと根付くことが「個の確立」だということなんだよね。そして、それで終わりじゃなくて、そういった個が今度は「全体の確立」へと向かっていく。新しい世界観というのはそういうものでなくてはならない。「全体の確立」というのは、まさに今度は宇宙の母や父に成長していくことなんだよね。つまり、人間は神々へと変身していくということ。そのくらい大きな風景で物事を見なくちゃいけない時代にもうきてると思うよ。
藤本
壮大な意識変革のお話をありがとうございました。一日も早く戦争が無くなるように、私たちも意識を変えて行かなくてはね。そうそう「人類が神を見る日」改訂版が年内に再販されるそうですね。楽しみにしてます。
投稿者 right : 2007年9月 1日 14:44
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